大阪城見物、覚え書き

2002年6月30日


はじめに

 従兄弟の結婚式にお呼ばれして、大阪まで行ってきました。せっかく大阪まで行ったのだから、大阪城見物でもしてこようと思いました。
 しかしそうは決めたものの、正直私は、大阪城の歴史ってあまり知らないんですよ。太閤・豊臣秀吉が建てて、大阪夏の陣では淀君と秀頼が立てこもって自害した場所ってくらいしか知りません。あとは、幕末になって再登場し、徳川慶喜が拠点に奮闘した場所(大阪城と二条城)。後に鳥羽伏見で破れた旧幕府軍を収容したけど、旧幕府軍に暴走されてはたまらんと慶喜は大阪城を脱出し、江戸に逃げ帰った…と。

 その後、新政府軍に占領されたと思うけど、そのときは燃え残った??
 それと大阪夏の陣では焼けたんですよね? ならば、いつ再建したんでしょうか??
 そういえば、そもそも昭和の戦火は逃れたのでしょうか??

 なんか考えれば考えるほど、混乱してきました。大阪城はいつ燃えて、いつ再建されたのでしょうか。
 その答えが大阪城の立て看板にでも書いてあれば幸いと出発しました。
 そしたら立て看板どころか、現在の天守閣は大阪城の歴史を伝える博物館になってるではありませんか。そこで今回の見物では「大阪城はいつ燃えた?」「いつ再建された?」を重点的に見てきました。
 せっかくですので、文章にして残しておきたいと思います。以下の文章の情報源は、現在の大阪城天守閣内の博物館の展示からです。覚え違いをしている場所がありましたら、やんわりとご指摘ください。


いまの大阪城は、いつ建てられたものでしょう?

まずはじめにクイズです。
いまの大阪城天守閣は、いつ建てられたものでしょうか? 次の中から選んでください。
  1)明応6年(1497年)
  2)天正6年(1578年)
  3)元和6年(1620年)
  4)安政6年(1859年)
  5)昭和6年(1931年)

 みなさん、何番だと思いますか?
 1番?…これは豊臣秀吉どころか織田信長も出てくる前の時代ですね。よってハズレ。ただし、明応5年に浄土真宗の蓮如というお坊さんがこの地に坊舎を建てたそうです。それが後に石山本願寺と呼ばれる大寺院に成長し、一世を風靡しました。しかしそれも後に台頭してきた織田信長との争いに敗れ、衰退します(天正8年、1580年)。
 2番?…1番の解説を読んでもらえばわかる通り、天正6年にはまだ大阪の地は石山本願寺の勢力が強かった頃です。その後、秀吉が大阪城の築城工事を始めたのは天正11年ですが、このとき建てられた豊臣大阪城は、徳川家との大阪冬の陣・夏の陣を経て、跡形もなく消されました。よってハズレ。
 3番?…徳川家と豊臣家が争った大阪冬の陣・夏の陣は、1615年に終結しました。その後、徳川家は豊臣大阪城に対抗して、大阪の地に大阪城を再建したのです! 大阪の住人への見栄もあったのでしょう。その工事がスタートしたのが、元和6年(1620年)なのです。・・・が、その天守閣はおよそ40年後に天災により燃えてしまったのでした。現存の天守閣ではありません。よってハズレ
 4番?…安政6年。幕府は海外からの圧力に屈し、6月以降に神奈川・長崎・函館三港において、露・仏・英・蘭・米の5カ国との自由貿易を許可することになりました。それに反感を抱いた西国大名と京の朝廷へ睨みを効かせるために、幕府は諸大名に命じ天守閣を再建した……なんていう記録はどこにもありません。ハズレ。(最初の1文は本当です)

 ここまで読めばお分かりですね。

答えは、5番:昭和6年(1931年)です。


市民の城

 大阪城には長い期間、天守閣が存在していませんでした。
 大阪夏の陣の数年後に徳川幕府によって大阪城再建は行われたものの、天守閣は築後36年で落雷により焼失。その後、幕末になって大手多聞櫓などの再建は行われたものの、天守閣を再び建てるほどの財政的余裕はなかったようです。江戸期の大阪城は天守閣がない城でした。
 そして明治になり、大正、昭和と時代は過ぎました。
 明治維新後、軍用施設として利用されていた大阪城ですが、昭和3年、大阪市長の呼びかけで天守閣再建のための募金が集められました。当時のお金で150万円のお金が半年で集まったとか。
 つまり現在の天守閣は、大阪の市民によって造られた市民の城であるわけです。

 ただ目標としては「豊臣大阪城の再現」だったそうですが、できあがった天守閣は豊臣大阪城の天守閣とは違い、徳川大阪城の天守閣とも違い、第三の天守閣になっています。このころは、豊臣大阪城と徳川大阪城が違うものであるということも知られていなかったそうです。
 現在の大阪城は徳川大阪城の堀などをそのまま残しています。天守閣のモデルは、黒田家に伝わる大阪陣図屏風に描かれた豊臣大阪城の天守閣であり、徳川大阪城の区割りに豊臣大阪城の天守閣が乗っているということになります。
 天守閣は昭和6年に完成。鉄骨鉄筋コンクリート造りで、当時最新の技術で造られたものです。

昭和の戦火は逃れられた

 明治維新後、大阪城の敷地は軍用施設に使われていました。
 となれば当然、第二次大戦では米軍の攻撃対象になります。
 大阪城周辺は終戦間近、激しい空爆が行われたようです。そのため櫓などの徳川期に建てられた建築物は大部分が焼失しました。・・・が、天守閣は運良く焼け残ったそうです。徳川期の建築物で残っているのは、1番櫓と6番櫓、大手門・多聞櫓・千貫櫓・乾櫓などだそうです。

平成の改修工事

 天守閣は昭和6年に建てられたものですが、外壁の色など古くなってきたのでしょう。
 平成9年(1997年)に大規模な改修工事が行われました。
 外壁の塗り替えと、装飾部品の修復、金箔の押し直しを行ったとか。なんでも震度7の地震にも耐えられるように補強されたそうです。


徳川期の大阪城

 大阪夏の陣で豊臣大阪城は焼かれました。
 その後、大阪は一時松平忠明が治めることになりましたが、間もなく幕府直轄地になり、元和6年(1620年)から大阪城の再築が行われました。
 再築といっても、徳川家にとっては豊臣家に対する意地があったのでしょう。なんでもかんでも、豊臣家のよりすごいもんを造ろうとしたようです。
 その結果、豊臣大阪城の堀は埋められ、天守閣の跡地も埋められ、新たな堀、新たな天守閣が造られました。
 豊臣家への対抗心からか、徳川大阪城の天守閣は豊臣大阪城の天守閣よりも高くそびえ立ったものであったようです。もっとも、敷地自体の大きさは、豊臣大阪城に及ばなかったそうですが。

 いまの大阪城は、この徳川大阪城を復元したようなものです。建っている場所は徳川幕府が整地した土地であり、現在の天守閣の壁は基本的に白色。黒田家の大阪陣図屏風に描かれる豊臣大阪城は黒塗りであり、天守閣を白塗りにしたのは確か徳川大阪城のほうです。
 よって、現在の大阪城天守閣に登って「ここが豊臣家の滅んだ場所かぁ」と感慨に思うのは誤りですよ。徳川家は豊臣大阪城を徹底的に排除しようとしたらしく、天守閣の位置まで変えていたのです。豊臣大阪城の天守閣の跡地は、現在は地中。
 ちなみに、今回の見物で大阪城からの帰り道、“徳川慶喜落ち延びコース"とばかりに、天守閣の北「極楽橋」を通る道を選んだところ、極楽橋の近く天守閣の石垣寄りに『秀頼、淀君 自刃の地』という石碑がありました。ひょっとしてそこが旧天守閣のあった場所なのかもしれません。(←未確認です)

天守閣の焼失とその後の戦火

 さて、そのように豊臣家への意地で建てられた徳川大阪城ですが、寛永6年(1629年)に天守閣が完成したものの、そのわずか36年後には落雷により焼失。なんでも北側のしゃちほこに落雷したとか。

 その後の幕府には再建の意思も金もなく、天守閣が再び建てられることはなかったようです。
 江戸期の大阪城は天守閣なしの城でした。
 まあ天守閣などなくとも実務的には困らず、江戸期の大阪城は西国からの年貢や商人からの税、貿易の利益などをため込んでいたそうです。実務は本丸御殿で行われていたそうです。
 幕末、町人の御用金で大手多聞櫓の再建など、大阪城の大修復が行われましたが、天守閣を再建する気はなかったようです。
 徳川慶喜が長州戦争の指揮を執ったり諸外国との交渉を行ったりしたのも、本丸御殿だったそうです。

 明治維新で新政府軍は、大阪城にまで進軍してきました。
 新政府軍が大阪城に到達すると、大台所から出火。大阪城内の大部分が焼失したそうです。


豊臣大阪城

 では徳川家がそこまで意識した豊臣大阪城とはどんな城だったのでしょうか。
 現在の大阪城天守閣内の博物館3階には、復元模型が展示されています。なかなか見事なものですので興味のある方はご覧ください。

 大阪城の一帯は、もともとは石山本願寺と呼ばれる大寺院があり、浄土真宗の総本山だったそうです。
 ところが織田信長は、全国統一の邪魔になるとしてこれを排除。11年に及ぶ戦いが繰り広げられたそうです。その戦は、天正8年(1580年)に顕如がこの地を離れることで終結しました。織田信長の勝利です。
 しかしそれから間もなく、信長は本能寺の変で自刃。
 その後、豊臣秀吉がその遺志を継ぎ、大阪の地に城を建てることにしました。(このころは大阪ではなく大坂と表記していた可能性が高いですが)
 天正11年(1583年)に本願寺跡に大阪城を建てたのです。
 この豊臣大阪城の広さは、現在の大阪城公園のおよそ4倍くらいの大きさだったとか。現在の博物館3階にある復元模型をみると、その難攻不落ぶりが伺えます。堀が幾重にも築かれてて、なかなか迫力があります。

 豊臣秀吉が1598年に亡くなると、天下は徳川家康と、それに対抗して豊臣秀頼を立てた石田三成によって争われます。そして1600年の関ヶ原の戦いで徳川方勝利。
 1614年には大阪冬の陣が起こり、関ヶ原で負けて浪人になっていた武士たちが秀頼と淀君とともに立て籠もりました。しかし徳川方の攻勢にひとまず和議が結ばれました。その結果、二の丸、三の丸は破棄されたのです。
 そして翌年の1615年、大阪夏の陣が起こり、ほとんど裸にされていた大阪城は徳川方の手により、落城したのでした。このとき、豊臣大阪城はほとんど延焼したようです。
 大阪冬の陣、夏の陣に関しては、もっと詳しく説明してあるページがあると思いますので、そちらを参考にしてください。


大阪城ができる前

 何度か話に出てきましたが、豊臣秀吉が大阪城を建てた土地はもともと石山本願寺があった場所です。

 その石山本願寺は明応5年(1496年)に、浄土真宗の蓮如上人が立てた坊舎がはじまりだそうです。そしてその11世蓮如が誰だったかに書いた手紙のなかで、歴史上初めて「大坂」という言葉が使われたそうです。
 その後、天文1年(1532年)に証如が山科から石山に移ってきて、石山本願寺が浄土真宗の本山になりました。そして大阪近辺は城塞化されていったのですが、元亀1年(1570年)に全国制覇を目指す織田信長に寺の移築を要請されました。そのときの指導者・顕如はこれを断り、激しい戦がはじまったのです。
 その戦は11年も続き、最終的には天正8年(1580年)、時の天皇の勅命が下り顕如が本願寺から退去し、終戦となりました。(顕如の子・教如はそれでも立て籠もり、3ヶ月後に敗北したそうです)
 そのような経緯で、大阪の土地は織田信長の手に渡りました。
 そして織田信長の死後は、その遺志を継いだ秀吉が手にしたのです。

 この土地はもともと大坂と表記されていたようですが、いつのころからか大阪とも書かれるようになり、現在では大阪に定着しています。(徳川期から大阪になったとの説もありますが、明治維新直後に大坂と記述されている場合もあるようで・・・はっきりとした区別はできないようです。誰かの書き間違いが定着しちゃったんですかねぇ…)

大坂から大阪へ

 いつごろから、なぜ大阪になったのかについては、諸説あるようです。
 大坂という言葉が歴史上初めて使われたと言われているのは先の蓮如の手紙で、それは明応5年(1496年)に書かれたものです。また大阪の文字が初めて使われたのは住吉大社の表通りにある石灯籠であるといわれています。それは天明6年(1786年)のものです。
 その後、文化5年(1808年)に浜松歌国が執筆した『摂陽落穂集』に「ある人のいはく、大阪と書くに坂の字を用ゆること心得べし、坂の字は土偏に反るといふ、土に反るとあるゆへ忌みきらひ、阜偏に書くべしとなり」とあるらしい。つまり、坂の字は「土にかえる(反る,帰る)」と読めて、縁起が悪い。だから阪の字を使いましょうと理由づけられていたようです。
 たしかに石山本願寺、豊臣大阪城、徳川大阪城天守閣と、土に帰ってばかりという気もしないではありませんね。

 そのように大坂から大阪にだんだん書き換えられていったのでしょうが、公式に統一されるのは明治10年代後半以降とのことです。
 明治初期に出された公文書ではまだ統一されておらず、『大坂府職制』(明治8年)、『大坂四組町名一覧』(明治3年)、『大坂市中地区町名改正絵図』(明治5年)などがあるのに対して、明治5年発行の『市中制法』『郡中制法』の奥付は大阪府となっているそうです。

この節の石山本願寺に関する記述は、友人Tくんに教えてもらいました。
小節「大坂から大阪へ」の記述は次のページを参考にして書きました。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/tyuu.html
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/qa/qa1.html



最後にまとめておきます

 「大阪城はいつ燃えた?」「いつ再建した?」

明応5年(1496年) 大阪城の元となる(?)石山本願寺(の大元)建設
天正8年(1580年) 織田信長の手により落城
天正11年(1583年) 豊臣大阪城、建設開始
慶長20年(1615年) 大阪夏の陣にて焼失
元和6年(1620年) 徳川幕府によって新しい図面で大阪城の新築開始
寛文5年(1665年) 落雷により天守閣、延焼
昭和6年(1931年) 大阪市民の手により天守閣再現
平成9年の改修を経て、現在に至る。

 以上、長い文章にお付き合いくださり、ありがとうございました。

(文責・山本明)

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