若者論

論題:“いまの子供には心がない”という主張の 
論説文を読み、それに対する意見を書く

 “心がない”とは、今まで知られていた心の現象が消えていく状態だと説明されている。この意味では「子供の一部に心がない」という説は間違っていると思う。
 どんな子供だって、おいしいものを食べればおいしいと感じるし、面白いものを見たら笑うことができるからだ。これこそ、今まで知られた心の現象ではないか。
 今の子供が以前と異なっているとしたら、心の現象が「なくなった」のではなく「見えにくく」なったのだ。
 心の現象が見えにくいことを“心がない”と定義し直すなら「子供の一部に心がない」は成立すると思う。
 では、そうなった原因は何なのか。
 それは、子供のお手本となるべき身近な大人に心がないからだろう。大人は建前で行動することも多く、それは心の現象を見えにくくしている。
 子供は身近な大人を見て育つものだ。以前は親や教師が身近にいて、建前と同時に本音も見せていた。子供の成長に応じて、不要な情報を遠ざけることもしていた。
 しかし最近ではテレビやインターネットが普及して、子供も大人と同じだけの情報を手にするようになった。それまでなら遠ざけられていたような大人の行動も、身近になってしまったのだ。
 心が十分に発達しないうちから、心の現象を見せない大人の情報に接するようになった。そのことによって、今の子供は心を見せなくなったのだ。
掲載:Benesse Corporation刊行 エンカレッジ小論文 大学受験講座 1999年12月号

<コメントもしくは蛇足>
 前半の「今の子供にもちゃんと心はあるでしょ」という主張をいろんな方に褒めてもらいました。
 それに対して、後半の「なぜ最近の子供が心を見せにくくなったのか」の考察は甘すぎるとも言われました。…おっしゃる通りだと思います。けど字数制限が厳しかったんです・・・(言い訳)
 いま見返すと、確かに後半の説得力ないなぁ…と思います。もっと練って書かなきゃダメですね。

 課題として読んだ論説文は、おそらく長い論説文の一部抜粋であって、筆者の方が言わんとしていること全ては読めてないと思うのですが、少なくとも読んだ部分では「今の子供は、なにをしても心の動きが見えない=心の動きがないからだ」とかなり無茶苦茶な主張をしているように見えました。
 初読の時点で反感を持ちました(笑)。意地でも反論してやろうと心に決めました。

 課題の問題文では、この主張に対して「同じ若者として」考えたことを書けという指示でした。これを書いてたのはすでに20代も半ば。若いといえば若いのですが、(論説文が対象にしているのは小中学生くらいなので)ちょっと“同じ若者として”の意見は無理じゃないか…と悩みました。

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