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1. はじめに 〜教養とは

おはようございます。これからここで始まる講義は「物理学IA」という話です。 もし「そんなはずはない!」と思っている人がいましたら、教室の確認をしてみてください。(ひょっとすると手に取る本を間違われたのかもしれません)

1.1 まず大学の設置目的について

さて皆さん、 大学での講義を聞くようになって、そろそろ1週間が過ぎようとしていますね。 どうでしょうか? 期待していたような講義は聞けていますか? 高校までとは、かなり違う印象を受けているんじゃないかと思います。 大学の講義の特徴といえば、この1週間でどう感じましたか?

ひょっとすると、こんな不満を持っているかもしれません。

こういう印象を、実は私も持った経験があります。 だけどもしも、そんな印象を持ったって人がいたならば、ぜひ「なぜそうなのか」ってことを考えてみましょう。

それを考えるために、まず「そもそも大学が設立されている目的」はなんなのかってことを考えてみます。 そのために「学校教育法」という法律を紐解いてみましょう。これには、小学校、中学校、高等学校、・・・といった日本のあらゆる学校の設立目的が書かれています。 該当の箇所を読み上げてみますね。

第2章 小学校
第17条 小学校は、心身の発達に応じて、初等普通教育を施すことを目的とする。

第3章 中学校
第35条 中学校は、小学校における教育基礎の上に、心身の発達に応じて、中等普通教育を施すことを目的とする。

第4章 高等学校
第41条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。

同じような文章が並んでいますね。下線は私が勝手に付けたものです。もともとの条文にはありません。 だけど注意して欲しいのは、ここまでの学校はどれも「教育を目的とする」と明記されているということです。

それでは大学について、その設置目的を見てみましょう。

第5章 大学
第52条 大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。

(以下、他の学校については省略します)

いかがでしょうか。条文のなかに1言も「教育を」目的とするとは書かれていないのですね。 あるのは知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とするという言葉のみです。 この辺が、大学の講義ではいまいち教育しようとする意思が感じられないなぁ…という印象の根底にありそうです。

それでは、ここで言っている「知的能力」「道徳的能力」「応用的能力」とは、どういうことを差しているのでしょうか。 これについて私は「大学の目的は“教養を持った”人物の育成にある」のだと捉えています。 知的能力、道徳的能力、応用的能力を展開できる人間、それはつまり“教養のある”人間であるということじゃないかと考えています。

そうするとじゃあ、“教養がある”ってどういうこと?と考えてみましょう。

1.2 教養がある…とは

大学の目的は「教養のある人間を育成すること」にあるとしましょう。 それじゃあ教養があるとは、どういうことなのか。

この写真を見てください。(講義当日は実物を見せました)

\includegraphics[width=4cm]{fig011-pet.eps}

これを見て、あなたは何を思いましたか? どんなことを考えましたか?

これはペットボトルを写しています。そしてペットボトルには、水が入っています。

実はこのペットボトルに入っているのは、先日私が行ってきた広島「宮島」の海で汲んできた水です。

さて、あなたはこの写真を見て、何を思いましたか? どんなことを考えましたか? どんなことを感じましたか?

まあ、いきなり感想を求められても、なにを答えていいんだかわからないって気持ちもわかります。 ただ想像してみてください。 “宮島で汲んできたという水”を眺めて、人はどういうことを考えるでしょうか?

宮島ってどこのことだろう? と思う人もいるでしょう。 広島県出身の人ならば、だいたいの場所はわかるでしょうね。はたまた修学旅行で行ってきたって人もいるでしょう。 行ったことがある人にとっては「あぁ、あの場所ね」と思うかもしれない。 そして、その風景を思い浮かべるかもしれませんね。

旅行好きの人ならば、宮島といえば日本三景のひとつだなぁと思い出すかもしれない。 そのことから発展して、他の日本三景 : 宮城県の松島や京都府の天橋立に思いを馳せる人もいるかもしれません。

歴史に詳しければ、日本三景といえば江戸時代に定着した考え方だなぁと思い出したり、さらに詳しければ、宮島といえば弘法大師、空海が目を付けた霊場(れいじょう)なんだとか、思いを巡らせるかもしれません。

いいでしょうか? 私が言いたいのは、こういうこと―― 「人の経験に応じて、同じものを見てもそれがなんであるか、感じること、思うことはバラバラなんだ」ということです。

そして“教養がある”人というのはどういう人を指すのかというと、私が思うに「同じものを見て、人よりもより多くのことを想起することができる人」のことなんじゃないでしょうか。 教養がある/ないは、「同じものを見たときに、想起する・思い出す・想像することができるものの多さ」の違いじゃないかと、私は考えています。 1つのものを見て、たくさんのことを考えることができる--そういう人のことを、教養がある人物と呼ぶのだと私は思います。

大学の講義は、教養がある人物を育成しようとしています。 だからそれぞれの教官は、それぞれ自分の立場から、自らの関心がある内容をその人の言葉で話してくれます。 それをただの知識の伝達だとは思わない方がいいでしょう。 それは単なる知識の伝達なのではなく、その話を通して、みなさんが“教養を持つ”きっかけにしようとしている(いろいろなことを思い出すタネを撒いている)のだと、考えてみてください。

ぜひ、ただ話を聞くのでなく、そこに含まれているその人の考え方を感じ取り、その面白さを認識する努力をしてみてください。 そういった努力を通して、皆さんにとっての教養が身に付いていくと私は思いますし、それが実りある大学生活を送ることに繋がるだろうと思います。

教養を身につける努力をせずに、自分の専攻に関係する科目だけを勉強する姿勢では、大学に来た意味がほとんどないでしょう。 せっかく大学に来たのだから、それも多くの学部を持つ総合大学に来たのだから、ぜひ好き嫌いを言わずに、幅広い分野の講義を聞いてみて欲しいと思います。

ちなみに、大学で“まじめに講義を聞く”だけってのも、もったいないですね。それではきっとバカになっちゃいますから、講義をサボるのもいいでしょう。 そこから得られるものも、きっと重要です。それも幅広い“教養ある”人物育成につながっていくでしょう。 混乱させるような言い方ですが、まじめに講義を聞くばかりでは、いけませんよ。

まあそれでもなお、この物理学IAという講義は聞きに来たい…と思ってもらえるように、私は精一杯、お話をしたいとは思っています。

この講義では物理学を題材にしながら、現代の日本社会や西欧文明の中で基本となる、根っこの部分の共通認識とも言える考え方 -- 近代科学の考え方について、お話をしていきたいと思っています。

1.3 事務的な話

それではそろそろ、少し事務的なお話をしておきましょうか。

まず教科書について。私は特定の教科書を前提にした話をするつもりはありません。 講義の最中に「教科書の何ページを開いて」という言い方は、決してしません。 なにも教科書を持たないまま、講義に参加して、理解してもらえるように、話をしていくつもりです。

だけど、それじゃあ教科書は買わなくてもいいのか?というと、そういうわけではありません。 教科書は、講義の予習や復讐には必須ですし、将来、力学の知識が必要になったときにも重宝します。 どんな教科書でも構いませんので、なにか最低1冊は、教科書を手にすることをお勧めいたします。 どうぞ本屋さんや図書館で、いろいろ物色してみてください。

一応、私のほうから「こういう教科書もあるよ」ということを参考までにお知らせしておきますと…

ここに挙げた本以外でももちろん構いません。 ここに挙げた本ならば、私はあらかじめ生協へ連絡していますので、すぐに購入することができるはずですよ…というだけ。
(ちなみに上記の2冊は、講義を担当する際に私がいろいろ物色して、いいなと思った本であるというだけでなく、出版社に頼んだら献本として1冊ずつ呉れた!という恩義があるので、やや強くお勧めしています)

さて、先にちょっと言いましたが、私はこの講義の評価において、出席することを重要視していません。 別に出席しなくても、それはそれで勉強になるはずだし、なにかしらを学んでおいてくれたら、それで結構です。 私は私なりに、みなさんが聞きたいと思ってくれるだけの話を毎回、していきたいと思っています。だけど、聞く価値があるかどうかの判断をするのは皆さん自身です。魅力がない、これなら自分で勉強したほうがいいって思ったならば、遠慮なく欠席してもらって構いません。

出席したかどうかを成績に影響させるつもりは全くありませんが、だけど私は「出席した人がなにを感じたのか」ってことには、とても興味があります。 そこで毎回、講義中にフィードバックの紙を配ります。 その紙に、その回の話を聞いて思ったこと、感じたこと、疑問点などを書いて、提出していってください。 それを翌週以降の、話の展開の参考にしたいと思っています。

この書籍版をお読みの方も、なにか思うところをメールなどでお知らせください! それを参考に、加筆などを考えたいと思います。 あなたからのご意見が、他の方のためにも役立つはずです。 ご協力を、よろしくお願いします。

フィードバックに書いてもらった内容は、名前を伏せた上で次の講義で話したり、私のホームページに掲載したりするかもしれません。そのことはご了承の上、構わないことだけ記入してください。

1.4 魔法と科学

さて、残った時間は少しお喋りでもしてみましょう。 いきなりですけど、

皆さんは、魔法に憧れたことってありますか?

魔法と言ってるのは、ちちんぷいぷいと唱えてキズが治るとか、メラと唱えて火が熾きるとか、そういうやつです。 魔法の箒に跨って空を飛んだり、魔法の絨毯を操縦したり。 いやね、こういうと変に聞こえるでしょうけど、私は小さい頃、魔法が使えたらなぁ!という想像をよくしていました。

けれどそういう思いを抱く人間は、昔からずっといたようですね。 人間の欲望は今も昔も変わらないのかもしれません。 ここで魔法とはどういうものを指すのか決めておくと、

ということにしておきましょう。

昔から人間はそういった魔法に対して憧れていたようなフシがあります。 だけど皆さん自身、すでに現在その気になれば、魔法を使えるってことには気付いていますか?

火を付ける魔法に呪文を唱える必要はありません。 --ライターやマッチがあります。

空を飛ぶのに箒は使いません。 --飛行機やハンググライダーを使います。

他にもバイクや車を使えば、馬よりも速く長く移動することができますね。

これらは、魔法ではないでしょうか?

ライターは、ガスを放射して同時に火花を散らして、炎を出す…というこの仕組みです。 そういう仕組みの道具を使った``魔法''です。 飛行機は翼が揚力を生み出し、空を滑走します。 これらは、その仕組みについて説得力のある説明がされていますが、上に挙げた``魔法''の条件を満たしているでしょう。

もともと魔法というのは、ヨーロッパでは2つの系統があったようです。 ひとつは、精霊や悪魔に頼って奇跡を起こす魔法。 もうひとつは、普段は表に現れていない自然界の隠れた仕組みを意識的に取り出して、生活に役立てるという魔法。後者を「自然魔術」と呼んでおきましょう。

前者の魔法は、精霊とか悪魔とか目には見えない、大抵の人には認知できないようなものに期待しているわけですから、やはり効果があるんだかないんだかわかりにくいです。効果があったと見るか、効果がなかったと見るか、個人差が大きくなります。

それに対して、後者の自然魔術ならば実際に認知している自然界の仕組みに、期待しているわけです。自然界に存在しているけど隠れている仕組みを見抜いて、その仕組みを利用して、人間の役に立つ効果を得ようという試みです。 その効果は自然の秘密を知った人にとっては、平等に目にすることが可能です。

近代の科学というのは、この自然魔術から発展してきた考え方なのです。 そのルーツを知るために、「自然魔術」の基本的な考え方を確認しておきましょう。 自然魔術が根底に置いている考えとは、

「この世界の根本には、確固たるルールが存在している」
ということです。 この世の中には、この自然界には、ただ気付かれていないだけでなにか法則性・規則性がある。そして、他の人がまだ気付いていないような法則を知ることで、その法則を利用して、自分の利益に繋げることができると考えるわけです。

この「世界の根本には、確固たるルールが存在している」という前提の下、さらに

と考えます。 そしてこの基本となる思想は、近代科学でも共通しているのです。

自然魔術というと、なにか胡散臭いものと感じるかもしれませんが、後期(16世紀)の自然魔術では、「自然現象をいくつかの特徴的な数値で表現する」「その数値がどのような関係式に従うか考える」「考えたことを実験と比較する」といった手法が取られるようになっていました。 これらの手法も、近代科学へとそのまま引き継がれています。

では近代科学と自然魔術では、なにが違っていたのかというと、

ということに尽きるでしょう。

自然魔術では、得られた知見を自分と限られた弟子にのみ伝えていたように私は感じます。 自然魔術を扱えるのは、限られた“選ばれた”人間だけでした。

だけど近代科学でそのようなことはなく、自分が得た知識を多くの人の目に触れる形にまとめて、互いに批判しながら、同じ目的に向って進んでいく…というスタイルが確立していきました。 そのように、互いに知識を共有することがどういう意味を持つかというと、

近代科学は(相応の努力を要するとしても)
その気になれば、誰でも使うことができて、同じ結論を得ることができる。
といことです。 近代科学は、魔術のように特に選ばれた人物のみが使える技ではありません。 つまり皆さんも、その気になりさえすれば努力と根気は必要でしょうけど、近代科学という魔法を使いこなせるようになるわけです。

なお、近代科学だなんて偉そうな呼び方をしていますが、 これは自然を理解するための一つの考え方にすぎません。

「この世界の根底に規則性なんて存在しないんだ」と思って生きていくこともできます。 科学の成果を知らずに、だけどもっとずっと心も身体も平穏に暮らしている人たちだって、世界には大勢いるでしょう。

だけどさっき教養とは「同じものを見て、いろんなことを想起できる能力だ」って話をしました。 近代科学、特に物理学の考え方を勉強しておくと、物事の見方にさらに幅が出てくるだろうと私は思います。 知らなくても困りません。だけど、知っていても困ることはありません。

また現在の日本社会では、こういった自然理解の仕方が主流です。 主流というよりももはや常識として、共通の認識になっているように感じます。 今後社会に出て他の人と話をするとき、相手がどういう土台で物事を考えているのか、その土台を知っておくことは大切なことだろうと思います。 そういう視点でも、いま物理学の考え方を勉強しておくことは無意味ではないでしょう。

とまあそんなわけで、ひとまず半年、気に入ってもらえたら後期も含めて1年間、物理学のお話をしてみたいと思います。

この講義では物理学、特に古典力学と呼ばれる分野のお話をしていきます。

これは物の動きを予測する学問です。

この世界の物体は、どんなルールに縛られて運動しているのだろうか? --そういったことを考える学問分野です。 実際にどんなルールが根底にあると考えれば、この世界を上手に予言することができるのか? といったことを、来週からお話ししていきたいと思っています。

では今日はこの辺で。フィードバックをよろしく。



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執筆者:山本明 ([物理屋さん]山本屋本舗 提供の記事) 投げ銭受け付け中!