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この記事の元 : Newton力学2 (剛体の力学)
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1. はじめに 〜わかるとは

おはようございます。 ここは物理学IBの教室です。

そんなはずないって思ってる人います? そういう方は教室を確認してくださいね。

1.1 「わかる」とは?

さて突然ですけれど、 みなさん「わかる」ってどういうことだと思いますか?

そんなこといきなり言われても…なに言われてるんだかすらわからない。こいつはホントに物理学の話をする気なのか?とお疑いかもしれません。 まあ、それも無理はないですね。

言葉を少し足しましょう。

ちょっと前に、友人と話をしていたんです。 その友人は大学で総合人間、大学院で素粒子理論と渡り歩いて、いま哲学を志してるんですが、「わかる」ということがどういうことなのか、よく考えているというのです。 そのときの話がとても興味深いと思いましたので、それを紹介しようと思いました。

さてここに、こんな絵があったとしましょう。 これがなにか「わかり」ますか?
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別の方向から見たら
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別の角度から見た絵は…。
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さらに別の角度からは…。
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どうでしょうか? もうおわかりですかね。 はい、いまお見せしていたのは、これです。

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コーヒーカップでした。

さあどうぞ、いまの心の動きを思い出してみてください。

「これはなんだか、わかりますか」と問われて、最初の絵を見せられたとき、どう思いましたか? きっと、いろいろな可能性を考えたんじゃないかと思います。 いろいろな想像力を働かせたと思います。

そして次の1枚の絵を見て、はじめにたくさん考えた可能性の中から「これは違う」「これもありそうにない」と、可能性を絞っていったと思います。 そしてさらに次の1枚を見て、その可能性をさらに絞っていって… 最後の1枚を見て、「あ、これはコーヒーカップだ」と思ったとき、それ以外の可能性のすべてを排除したと思います。

思い出してください。 なにもわからない状態って、いろいろな想像力を働かせますよね。 いろんな可能性を考えます。 別の情報が与えられて、考えた可能性の中から、なさそうな可能性を排除する。 選択肢の幅を狭めていく。 そして「わかった」と思ったときというのは、 それ以外の可能性をすべて排除しきったってときです。

これはその友人が言った言葉なんですが、 「わからない」という状態をすべて捨て去ったときが「わかった」ときなのかもしれません。

考えてみると、「わからない」ときというのは頭がとても柔軟に活動していますよね。 もしコーヒーカップも初めて見るという人だったら、その使い道はわからないですよね。 だから、これは何に使うんだろう?と考えるでしょう。 置物か、帽子の類いか。それとも乗り物か? もっといろんなことを考えるでしょう。

コーヒーカップの使い道を「わかって」いる人は、そうは考えない。 これはコーヒーを飲むものだ!と思うはず。

同じものを見たとき、いろんな可能性に思いをはせられる人の方が、創造性が豊かといえるかもしれませんね。 同じものを見て、より多くのことを想像することができる――それが、その人の生活が豊かであるということじゃないかな…と私は思います。

前期も言いましたね。 大学という制度が置かれているのは“教養ある”人物の育成のためです。 そしてこれはあくまで私の解釈でしかないけれど、教養があるというのは“ひとつのことを見て、より多くのことを想起できる”って能力なのだろうと思います。

そのような“教養”を身につけるためには、そう簡単に「わかった」なんて思ってしまわない方がいいのかもしれません。

コーヒーカップはコーヒーを飲むものだって、知らない方がいいんだとは言いません。 だけど、それを知らないことにも価値はあるんです。 そして知った上でなお、知らない時と同じ気持ちでいられることにも、 大きな価値はあるでしょう。

「わかって」しまうのは、それ以外の可能性を捨ててしまうこと。 その友人と話したことなんですが、 私達は物事を簡単に「わかって」しまわないほうが、いいのかもしれません。 「わかりたい」と思い続けること、「わからない、だけど、わかりたい」という思いを抱き続けること、それが大切なのだろうと思います。

1.2 学問の心構え

・・・なんで、こんな話をしはじめたのかというと、 前期の物理学IAで追加レポートの課題を出しました。 「“科学的”とはどういうことを指すだろうか?」っていう質問。 その答えとして「科学的なことは、説明できるもの。すでにわかっている事象が、科学的なことだ」という指摘を多くいただいたからです。

「説明できる・できない」ことや「物事を理解できる・できない」ことが、 科学的なことかどうかを分けますかね? そういう考え方がダメだなんて思いません。だけど、科学的とは違った“分かり方”や“理解・説明の仕方”って、ないかなぁ?? 「わかる・わからない」と「科学的・非科学的の区別」は、別のものじゃないかなぁ?? …とまあ、そんなことを考えてもらいたいなと思って、 ちょっとへんてこりんな話から、講義を始めてみました。

こういう「わかるとはどういうことか」「科学とはなにか」 といったことを考える機会は、大学生にとって大切なことだと思います。 すぐに答えを出す必要はありません。いつ考えを変えたって構いません。 だけど、それを考える姿勢を大切にして欲しいなと思います。 それを考える時間を大事にして欲しいと思います。

学問というのは、物事を「わかりたい」と努力し続けることだと私は思います。 「わかりたい」だけど「わからない」そんな状態で居続ける。 わからないけど、わかりたい…そう思い続ける。それが学問だと思います。

みなさんも安易にわかったりしないで、結構です。 その「わからなさ」を楽しんでください。 その楽しさを認識できるようになったら立派なものですね。 大学を卒業するくらいには、そういう知的な“遊び”の時間も楽しめるようになってるといいんじゃないかなと思います。

ちなみにどんな学問でも、博士の学位はPh.D(哲学博士)というんですけど、ご存じですか? 学部卒業時なら理学学士とか工学学士となり、修士課程を卒業すると理学修士に工学修士となります。 それぞれの分野での「学士」や「修士」となるのです。 だけど博士は別。 理学博士とか工学博士とは呼びません。 なにを専攻していたとしても、大学院博士課程を卒業すると「哲学博士」。 どんな学問も、突き詰めれば哲学だってことです。 哲学、つまり「物事を考える・考え続ける」ということに繋がってるわけです。

さて、初回にいきなりとりとめない話からはじめちゃいましたが、 ここは「物理学IB」の教室ですね。 安易に「わかった」状態になってもらいたくはありませんが、 「わからない」「わかりにくい」話にはならないように気を付けます。

後期、この時間の物理学IBを担当します、私は山本明といいます。

1.3 この講義でなにを扱うのか

この物理学IBではなにをやるのかっていうと、 「大きさがある物体」の動きを考えるってことをやっていきます。

前期の物理学IAでは、大きさのない物体:質点の動きを扱いました。 後期は、質点がたくさんある場合と、大きさがある物体について、 「その動きを予測する」ってことをやりたいと思っています。 剛体の他にも、連続体や流体など、大きさを考える手段はあるけど、一番単純(で複雑)なものを扱います。

物理はとにかく「ものの動きを知りたい」って気持ちが出発地点です。 物の動きを気持ちよく説明できるすべを見いだしたい――という動機で発展しています。

古来、人はものの動きを理解したい、納得のいく説明をしたい …と求めてきたわけですね。 炎を見たら、これはなんだろうか、どういう仕組みなんだろうか…と考えるタイプの人がいた。炎の使い方を考える人、炎の起こし方を考える人だけでなく。炎の仕組みについて思考を巡らす人。そういう人が、このいまの物理学へと続く人類の知の営みの出発地点にいたんじゃないかな…と思います。

この講義では、その分かり方、 理解の仕方のひとつの候補をお話します。

自然のあり様についての、ものの動きについての理解の仕方のひとつの例。

比較的、新しくて、それなりに説得力のある説明だと私は思います。 だけど、あくまでひとつの候補です。 理解の仕方はこれだけだと思って、「わかって」しまわないでくださいね。

これは私が最近読んだ本に書いてあったんですが1.1、 中世の医学者たちのお話です。

昔の人たちはとにかくどこか“遅れてて…”というイメージを持ってる人も多いかもしれません。 昔の人たちは実際に人の体がどうなってるか調べなかったんじゃないかって思ってる人もいるかもしれません。 だけど、以前だって 実際に亡くなった方の体を解剖してみるってことは行なわれていたそうですね。

そして解剖した結果が、ガレノスとかイブン・スィーナーといった有名な教科書の記述と食い違っていたときにどうしたかというと、 自分の目を疑ったそうです。 自分が目にしたものに理屈を付けて、教科書の記述に合わせていた…というんです。 目で見たものよりも、ずっと前から使われている偉大な教科書の記述を信じたってワケです。

このことって、変なことだと思いますか?

だから昔の人の学問はおかしいんだ!と思いますか??

もしそう思うならば、みなさん自身、自分が物理とか化学の基礎実験をやったときのことを想像してみてください。 そして実験結果が教科書と食い違ってたとき、みなさんならどうするでしょうか?

もちろん私だって、測定結果をちょっと調整したりします。だいたい結果が予測できるものならば、その期待に沿うようにね。 だから、そうすることが悪いことだって言いたいわけじゃありません。

ただ単純に、 「だから昔の人や中世の人はおかしいんだ」なんて、思わない方がよさそうですよってことです。他人事のように思ってちゃいけないよってこと。

物事を「これしかない」っていう捉え方をするのは、 たとえそれがどんなに良さそうな捉え方に見えたとしても、 とても危険な考え方なんですね。

さんざん繰り返しになっちゃいますけど、とにかくどうぞ柔軟でい続けてくださいね――ということです。 「これでもうわかった!」と思うことは、少々、危険を孕んでいるようです。 常に「わかっていない」状態を保ちつつ、「わかりたい」と探求を続けていく姿勢が 大切だろうと思います。

この講義を通して私は私で「なに言ってるんだか、ワケわからない」と思われないよう、精いっぱい努力します。 この講義が、みなさんの「わからない状態」の手助けができるといいな…と思っています。

ではこの半年、よろしくお願いします。



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執筆者:山本明 ([物理屋さん]山本屋本舗 提供の記事) 投げ銭受け付け中!